黄州寒食詩巻ーその3数奇な運命(結び)
黄州寒食詩二首は蘇軾47歳の黄州流罪中(元豊5年・1082年)の春に作られ、
十数年後にその時の所有者である張浩が黄山谷に依頼して跋を書いてもらった。
時代は南宋になって、寒食帖は張浩の兄弟の孫である張縯に所有され、
張氏は長い跋文を書き、先祖の収蔵物語を記述した。
時代は宋から元に変わり、寒食帖は張金界奴の収蔵となったが、
その後皇帝内府に入り、元代の文宗皇帝は「天歴之宝」の押角印を寒食帖の左上に押した。
清代になって乾隆帝のときに再び内府に入り、乾隆帝による跋と「雪堂餘韻」の引首が付いた。
清末の1860年、英仏連合軍が北京に入り円明園を焼き払った際には、危うく難を免れたものの、
再び民間に流出してしまう。帖の下部にある焼け焦げの痕は、このときの騒乱で火災に遭った
ためにできたものだと言われている。
1922年、日本に渡り、豪商の菊池惺堂が大金をもってこの帖を購入した。
1923年9月、関東大震災が発生し、東京一帯は大火災に見舞われたが、
菊池氏は先祖伝来の収蔵品をことごとく失う中で寒食帖と瀟湘臥遊図巻を救い出し、
焼失を免れた。これら故事については、内藤湖南による跋文にも書かれている。
黄州寒食詩巻は、第二次世界大戦の東京大空襲にも幸い毀損することなく、
戦後に国民政府の大物政治家であった王世杰によって購入され、
王世杰の子は高価な値で台北國立故宮博物院に売却し、現在に至る。
中国書史の中で最高の名品の一つである「寒食帖」を引き継ぎの歴史に
内藤湖南氏と菊池惺堂氏二人の日本人も参加者となった。
このエピソードから本詩巻は日本との関係浅からぬものだろう。
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