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黄州寒食詩巻ーその1寒食節の由来

 黄州寒食詩巻は、宋の元豊5年(1082年)、蘇軾(1036-1102)が黄州(現在の湖北省黄岡県)に流謫されていた時に、自詠の寒食の詩2首を書いた。寒食節はちょうど冬至の翌日から数えて百五日目にあたり、昔の人はみな寒食を百五といった。隋・唐の時代には、多くの寒食を清明の二日前に固定し、宋代には三日前と定めていた。この風俗は春秋時代の晋文公の忠臣、介子推を記念するためのもので、すでに2000年以上の歴史がある。 春秋・戦国時代に、晋国の君主・晋の献公の息子の重耳は、迫害されて外国に逃れ、十九年間も流浪生活を送り、数え切れない辛い目にあった。介子推は重耳に付き添って外地を19年も漂泊した。一度食べ物でさえもなかった時期もあって、介子推は太股を引き裂いて重耳に食べさせた。重耳は晋に戻り君(即ち文公)になると功臣を褒賞しようとしたが、介子推は功を上げても禄を求めることなく夏県の実家に戻ってしまった。635年初春、介子推は母を伴って介休(定陽県)小宋曲村にある母方の祖母の家に身を隠した。文公はこれを知ると、隣人の解張に道案内をさせて介休に探しに行ったが、介子推は恩賞を受け取ることを拒み、再び母を背負って綿山の洞穴に隠れ住み、寒食の生活を送った。文公は介子推に山を出て政治を補佐させようと、多くの臣を率いて綿山の麓まで来ると、人を山に登らせて数え切れないほど呼びかけたが、介子推が山を出て会う気配はない。この時、一人の臣が文公に「介子推は大の親孝行であるから、一方を残して三方に火をつければ、老母を背負ってきっと出てくるに違いない」と進言した。晋の文公は介子推が親孝行なのを知っていたので、もし綿山に火を放ったならば、きっと母親を携えて山から逃げ出してくると思った。けれども介子推は功を争うより死を選んだ。大火は三日三晩燃えつづけ、山全体を焼きつくした。文公が人を遣わして見にいかせたところ、介子推母子は一本の枯れた柳の木に抱きついたまま焼死していた。文公は非常に悲しみ、悔やんでも悔やみ切れず、この忠と孝を備えた賢臣を記念するため、綿山を介山に改め、定陽県を介休県に改めるよう命じた。また、山を燃やした日を「寒食節」に定め、三日間火を使って食事を作らず、冷食を口にするよう全国に命令を下した。これが歴史上、最も早く提起された寒食の起源説である。
 寒食節は唐・宋の時代において最も重要な祭日であり、蘇軾が筆禍事件により黄州に流罪となった後、この地で3度目の寒食節を迎え、身の不遇を嘆き、忠臣であった介子推のことを思い出せ、心の底からの悲哀、鬱屈が満ち溢れていただろう。 

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